ものごとを考える物差し、米国で学んだ ― スポーツ経営学者 小林至 氏(第2回)

最終更新日: 2019年11月25日
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中村千晶

ものごとを考える物差し、米国で学んだ ― スポーツ経営学者 小林至 氏(第2回)

こばやし・いたる◆1968年、神奈川県逗子市生まれ。92年、千葉ロッテマリーンズにドラフト8位で入団。史上3人目の東大卒プロ野球選手となる。93年退団。翌94年から7年間、アメリカに在住。その間、コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得。2002年から江戸川大学助教授、06年から同教授。05年から14年まで福岡ソフトバンクホークス取締役を兼任。立命館大学客員教授のほか、各メディアでも幅広く活動中。

 

――スポーツと経営学。ご自分の「得意分野」を定めて、順調に道を進まれたように思えますが?

 いやいや、いま考えても恥ずかしいほど、当時は何のプランもありませんでした。コロンビアの卒業生は、多くがウォール街の金融機関に就職するのですが、僕は何も決めずに卒業してしまった。渡米前に日本のマスコミの知り合いから「東大卒で、元プロ野球選手で、MBA(経営学修士号)を取ったら、誰も放っておかないよ。スポーツ解説者やリポーターで声がかかるよ」なんて言われていたんです。僕はおめでたいから、すっかりその気になっていたら、誰も誘いにこなかった!(笑)

 何も仕事をしないのはさすがにまずいので、フロリダの「ザ・ゴルフ・チャンネル」というケーブルテレビ局で日本語の翻訳・通訳の仕事をしました。給料は、年俸7万ドル(約800万円)くらいでしたから決して悪くなかった。でも金融関係に行った同窓生から「年俸100万ドルを突破した」なんて話を聞いているうちに、くだらないプライドや嫉妬心がわいてきて「オレはこんなところにいる人間じゃない」なんてブツブツ言っていたら、クビになっちゃった(笑)。

 でも7年間、アメリカにどっぷり漬かって生活したことから、学んだことは多いですよ。ビジネスを生み出すその発想力などの光の部分もそうですが、激しい貧富の差や、それを生み出す社会のしくみなどの影の部分も含めて、身をもって体験できたことで、ものごとを考える物差しが増えたと思います。

 

――そして、2000年に帰国されたのですね。

 ラジオやテレビで少し仕事をしていたところに、徳田虎雄さん(医師、当時は衆議院議員)から「参議院選挙に出馬しないか」とお誘いを受けました。東京じゅうの駅で、白い目で見られながらこなした街頭演説の数は1000回以上。そんな稀有な経験も含めて、素晴らしい社会勉強になりましたけど、結果は落選。妻と3人の子、犬1頭を連れて途方に暮れました。そんなときに江戸川大学から「教えてみないか」とお話をいただきました。02年のことでした。

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撮影:大嶋千尋

――その後、さらに大きな転機を迎えます。

 球界再編が社会問題になった04年のことでした。出版社から「プロ野球経営に関する本を書かないか」と声がかかり、僕はやるならば、渡辺恒雄さん(読売新聞社主筆、当時は読売ジャイアンツ球団オーナー)にお話を聞きたいと思いました。でも読売新聞社の広報に申し込んだら「取材はお受けしていません」とのこと。どこの誰かもわからない大学教員の取材申し込みですから、当然ですよね。ところが、このときはなぜか、こちらの気持ちを伝えることができれば、なんとかなるんじゃないかという思いにかられて……「渡辺さんは手紙は読むらしい」なんていう噂をなぜか信じて、一昼夜かけて手紙を書いて、配達証明郵便で送りました。そして読売新聞社に改めて電話をしたら「あなたの取材を受けます」と言ってくださった。取材させていただき、球団経営についてまとめた本『合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!』(宝島社)を書いたんです。渡辺恒雄さんも「革命的な本だ!」と褒めてくださって、300冊を買い上げ、知り合いすべてに配ってくださった。その一人が孫正義さん(ソフトバンクグループ会長兼社長)だったんです。

(第3回につづく)

 

 

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