「映画をわかったつもり」になっていた自分に気づき、大学に戻った ー 諏訪敦彦氏(第1回)

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中村千晶

「映画をわかったつもり」になっていた自分に気づき、大学に戻った ー 諏訪敦彦氏(第1回)

撮影:丸橋ユキ

すわ・のぶひろ◆1960年、広島生まれ。東京藝術大学大学院教授。96年に「2/デュオ」で長編映画デビュー。99年に「M/OTHER」(主演・三浦友和)でカンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞。02年から文化庁新進芸術家在外研修員としてパリに留学。05年に「不完全なふたり」がロカルノ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、フランスでも大ヒット。18年に8年ぶりの新作となる新作「ライオンは今夜死ぬ」を発表。02年から東京造形大学教授に就任、08年から13年まで学長を務めた。近年、小中学生の子どもたちのワークショップ「こども映画教室」にも講師として参加している。

 

――国内外で高く評価される監督であり、大学教授としての顔もお持ちです。2013年、東京造形大学学長時代の入学式での式辞が名スピーチだと話題になりました。

 自分の学生時代の話をしただけなんですけどね。そもそも僕は映画監督になりたいと思ったことはないんです。広島にいた高校時代、担任に「映画の仕事がしたい」と相談したら、「お前には無理だ」と言われました。「山田洋二さんとか、映画監督がどこの大学出てるか知ってるのか。東大や京大だぞ」と。僕の父は木下恵介監督のファンで、学生時代に松竹に出入りしていたこともあった。その父にも相談したら、やっぱり「お前は、無理だ」と言われました。「お前はフツーだから無理。あの世界は本当に個性が強くないと生き残れないから」と。

――映画の世界に興味を持ったきっかけは?

 昔から見るのは好きでしたが、作る側に興味が向いたのは高校時代、バスケ部の先輩が映画を作って文化祭で上映したことがきっかけです。「映画って自分でも作れるんだ!」と知って、翌年に自分でも作ってみたんです。でもテレビの学園ドラマのまねっこのようなもので、あまりに恥ずかしくて「これじゃない」と思った。そのころ『メカスの映画日記』(ジョナス・メカス著)という本に出合ったんです。その本で実験映画やアンダーグラウンド映画という存在を知って、世界が開けました。「個人でこういう映画を作ることが可能なら、自分にもできるんじゃないか? 東京に行ってやってみたい」と。

――そして東京造形大学に進学。しかし大学には行かずに映画の現場で働いていたそうですね。

 当時は「自主映画」というムーブメントがあったんです。大学の映研でもなく、プロでもないけれど「本気で映画を作る!」という人たちが現れ始めたころで、そんななか19歳のときに山本政志さんに出会った。彼の映画の上映会に行って、終わったあと飲みに行って、彼の映画を手伝うことになったんです。そこから大学には行けなくなってしまいました。約2か月間みっちり撮影現場で働いて、終わるとほかの監督の助監督をして、気が付くと2年くらい大学に行かなかった。実際「このままやっていれば、そのうちに監督をやらせてもらえて、映画界に入っていけるのかも」という予感はありました。

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映画「ライオンは今夜死ぬ」(1月20日よりYEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開。出演:ジャン=ピエール・レオ―/監督・脚本:諏訪敦彦/配給:ビターズ・エンド) ©2017−FILM-IN-EVOLUTION−LES PRODUCTIONS BAL THAZAR−

 

――それでも、大学に戻ったのですね。理由は?

 あのころ僕はほかの学生と比べて、自分の映画の経験値は圧倒的に上だと自負していた。だからもう映画のことはわかったつもりでいたんです。そんなとき久しぶりに大学に顔を出して、同級生の作る映画に衝撃を受けました。彼らは経験はなにもないけれど、自由に映画を作っていた。「これこそ映画だ!」と思いました。そして現場での経験とは必ずしもいいものではない、と気づいたんです。物を創ること(=クリエーション)とは「誰も経験してないこと」をやらなければならないものです。でも経験を積んで、そのことにプライドを持つと「これ、やらないよ、普通」という発想になってしまう。そうするとクリエーションの質は落ちてしまうんです。そこで助監督をいったんやめて、大学に戻りました。留年して、休学もしたので卒業まで6年くらいかかりましたね。