42歳でフランスに留学。新たな道が開けてきた ー 諏訪敦彦氏(第2回)

最終更新日: 2019年11月25日
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中村千晶

42歳でフランスに留学。新たな道が開けてきた ー 諏訪敦彦氏(第2回)

すわ・のぶひろ◆1960年、広島生まれ。東京藝術大学大学院教授。96年に「2/デュオ」で長編映画デビュー。99年に「M/OTHER」(主演・三浦友和)でカンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞。02年から文化庁新進芸術家在外研修員としてパリに留学。05年に「不完全なふたり」がロカルノ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、フランスでも大ヒット。18年に8年ぶりの新作となる新作「ライオンは今夜死ぬ」を発表。02年から東京造形大学教授に就任、08年から13年まで学長を務めた。近年、小中学生の子どもたちのワークショップ「こども映画教室」にも講師として参加している。

 

――大学を卒業して、再び映画の世界に入ったのですね。

 卒業後、石井聰亙(岳龍)監督に「明日から現場に入るから手伝って」と言われまして、それからフリーの助監督として働くようになりました。助監督以外にも千葉テレビの教育番組の演出や、企業のPRや社内研修用のビデオを撮る仕事をしました。「ケンタッキーフライドチキン」の仕事が一番多くて、アメリカのケンタッキー州まで行って、創業者の「カーネル・サンダース物語」を作ったこともあります。彼の奥さんがまだご存命だったので、彼女にインタビューをしたりして。おもしろかったですよ。

――そして97年に初の長編映画「2/デュオ」(主演・柳愛里、西島秀俊)を発表。即興で撮られた劇場映画として話題になりました。即興を取り入れるスタイルは現在も続いていますね。

 「2/デュオ」は最初は脚本書いてたんです。でも脚本書くという行為が自分が映画を撮りたいと思っている衝動からどんどん離れていくことに気づいた。「なにかが違う。やり直したい」とプロデューサーにレポート用紙6枚だけのあらすじを持っていったら、「わかった。これで撮れ」と。大学時代にヌーヴェルバーグ映画でジャン=リュック・ゴダール監督たちが即興的に映画を作るのを観ていたので「なんとかできるだろう」とやりました。

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撮影:丸橋ユキ

――その後、02年にフランスへ留学されます。42歳のときですね。大きな決断でしたか?

 というより、お金がなかったんです(笑)。01年に「Hstory」を劇場公開しましたが、日本ではほとんどお客さんが入らず「もう日本で撮れる可能性はないな」と実感していました。子どもが二人いたので、さすがにまずいなと、派遣として佐川急便で働きました。あの縞のシャツを着てましたよ。そんなとき文化庁の在外研修員制度に応募したら受かったんです。行くと日当が1万円くらい出るんですよ。同時に東京造形大学から「専任教員に」と声がかかり、給料も出たので、家族4人でパリで1年間暮らすことができました。でも実はパリで何をしていたかというと、ほとんど子育てです。現地でプロデューサーに会って映画の企画を相談してもいましたが、動きだしたのは帰国後です。それが05年の「不完全なふたり」です。

――「不完全なふたり」も、新作「ライオンは今夜死ぬ」(主演・ジャン=ピエール・レオー)もフランス人の役者を使い、フランス語で撮っていますね。

 フランスには助成金のシステムがあって、僕のような「商業映画ではない」映画を撮りやすいんです。でもフランス語は全然ダメで、特に「不完全なふたり」では主演の二人が即興で何を話しているのか、まったくわからなかった(笑)。編集のときに字幕を付けてもらって「こんなことを言ってたんだ!」と。もちろん芝居がよかったとか、俳優のコンビネーションがよかったとかはわかりますし、言葉がわからないからこそ感じるものがある。それが映画のおもしろいところです。映画は監督が一人で作るのではなく、みんなで作るもの。監督は全てをとりまとめるオーガナイザーで、それがうまくいけば映画はうまくいくんです。