高2のときに人生が決まった ― クリエイティブディレクター/アートディレクター 佐藤可士和氏(第1回)

最終更新日: 2019年11月25日
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中村千晶

高2のときに人生が決まった ― クリエイティブディレクター/アートディレクター 佐藤可士和氏(第1回)

さとう・かしわ◆1965年、東京都生まれ。89年に多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業後、博報堂に入社。00年に「SAMURAI」を設立。国立美術館のシンボルマークデザイン、ユニクロ、楽天グループ、セブン-イレブンなどのブランド戦略のクリエイティブディレクションなどを手がける。ADC賞、毎日デザイン賞ほか受賞多数。慶應義塾大学特別招聘教授、多摩美術大学客員教授。著書に『佐藤可士和の超整理術』『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』(ともに日本経済新聞社)など多数。

 

――クリエーターという仕事を意識したのはいつ頃からでしょうか?

高2で「美大に行こう」と決めたときですね。子どものころから絵は好きで遊ぶように描いていたし、父が建築家なので環境の下地はありましたが、それまでは何も考えていなかった。進路を決めるときに「美大」という選択肢に気がついて、試しに美術予備校に行ってデッサンをしたんです。雷に打たれたように「これだ!」と思いました。全然うまく描けなかったのですがあまりに楽しくて。お昼に家に帰って、母に「俺、美大行って、クリエーターになるから!」と。母は「えっ、もう決めたの?もうちょっと考えたら?」(笑)。

――そして多摩美術大学デザイン科に進学。大学3年のとき人生を決める出会いがあったそうですね。

当時、第一線で活躍していたアートディレクターの中島祥文先生の授業を受けたんです。「あのCMはこんなふうに作ったんだ」と現場の話を聞くことができて、「広告っておもしろいな」と思った。そのときにアートディレクターの大貫卓也さんを知ったんです。大貫さんは博報堂に入社してまだ4年目くらいで、「としまえん」の広告で一躍注目された若手スターでした。僕は毎日、通学電車のなかで「としまえん」のポスターを見て、すごくビビッドでかっこいいと思っていた。僕には大貫さんの作った広告だけが、まったく違ったものに見えたんです。だから単純に「大貫さんがいるから、博報堂に行きたい!」と。

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撮影:丸橋ユキ

――人気企業への就職は大変だったのでは?

大変でした(笑)。僕が入社した年のデザイナー採用は4人だけ。大学で授業をさぼったり、課題を出さない人はその段階ではじかれる。でも僕は就職以前に、ものすごく前向きな学生だったんです。学校の課題も毎回100%全力でやっていました。就職のためとかではなく「いいものを作って、クリエーターとして評価されたい」というモチベーションがものすごく高かったんです。自分で作品もたくさん作っていたし、友達と個展もやって、バンドもやって・・・・・・と、猛烈に忙しい大学時代でした。

――いま振り返って、何が採用の決め手だったと思いますか?

自分では「トップで受かった」と思っていたのに、実際は際どかったらしいです(笑)。僕はかなり極端なことをやっていました。面接のときには軽トラを借りて会場に入りきらないほど大量に作品を持って行ったり、自分が作った曲を聴かせたり。試験官に「君はアーティストになればいいのでは?なぜ広告会社なんだ?」と。「広告には『すごくいい!』と思うものがないから、僕がやれば一番になれると思う」と答えたら「何様だと思ってんだ!」と怒鳴られました。当たり前ですよね(笑)。あとになって「君の評価は満点と0点にスパーンと分かれていた」と聞きました。本当にギリギリだったみたいですね。

 

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